夕映えのはな 3

昭和六年、晩秋の、四方の山々を彩る実りの便りが一気に麓の町にも駆け下りる頃、例年になく逸早い初雪が舞い降りていた。
世に吹き荒れる不景気風や、不安定な生糸相場に四苦八苦する製糸紡績業界。
だが、当時その強力な煽りの大方を引き受けてくれたのが繭生産農家だった。
機をみて工場経営者等は、さらに操業を拡大していった。
女工等には年末から新年にかけての正月休みや旧盆休みを故郷に帰省させず、一部工場を稼動。
光恵にしても、正月に、盆休みに、愛しい家族の待つ松之山へ帰省ことなく工場に居残り働き通していた。
すでに一流工になっていた光恵。
一円たりとも無駄使いすることなく貯めた給金全てを仕送りし、一刻も早くその金で買い取った田畑で、家族のための美味しい米を父親に作らせてあげることを夢見ていた。
世に言う世界大恐慌故の生糸単価の大幅な下落でも、良い糸は売れ、良い糸を紡ぎ出す女工等は稼げ、彼ら優秀な女工を多く抱える経営者は大いに利益を得ることが出来たのである。
当然の如く会社側は優良工女に手厚く報奨金を与え、他の工場へ引き抜かれないように策を講じざるを得なかった。
ようやく育った稼ぎ頭に逃げられては、会社の存亡に関わる大事態になりかねまい。
だからこそ、募集員には大枚を叩いてでも地方からまだ幼い健康な娘たちを集めさせ、さらに、他の工場の腕のよい熟練工を躍起になって引き抜いていった。
終いには、優秀な女工に男子社員を宛がい恋愛をさせ、または優良女工と優良男工の婚姻を推奨するなどして社内の優秀な人材を確保し、組織固めを進めてゆくのだった。
光恵にしても、自分自身の夢のために朝早くから夜遅くまで人一倍体を動かし、全神経を使って秀逸な糸を紡ぎだしていた。
手先が器用で真面目な性格は、働くほどに給金が上がり、周りから尊ばれ、そして何時しか自信にもなって、もうすでに今が自身の夢の九合目だと錯覚したとして、一途な光恵の微かな希望をはたして何処の誰が笑えよう。
しかし、他の女工たちのように町に出て心身を休めることもなく、決められた僅かな休憩時間さえ惜しんで精出し働く光恵。
次第に目に見えぬ疲労が体内に蓄積し、疲れを癒やす術を未だ持たない田舎出の幼い少女の心身を何時からか病魔が蝕んでいた。
一年中、機械の蒸気の熱気と湿気で肌が汗ばみ、着衣や前掛けや床をも濡らす室内は、目の前が白く霞んで見通せぬほどに高温多湿で、結核菌の繁殖に適した環境そのものだった。
さらに冬季などは、室内外の寒暖差で体の抵抗力が弱まり、健康を害す若い女工等の間に次々と感染が拡大してゆくのである。
まさに工場内は一斉感染の格好の場と化し、まるで結核病の温床と言わざるを得ないこの労働環境の中でさえ、いったい誰が光恵の身体の変調を気に留めよう。
いいや違う、周りはもうすでに不治の病に取り付かれた光恵を哀れみ、恐れ、近寄ろうとさえしなかった。
境遇を同じくして、小学校を出たてで口減らしのため出稼ぎに出され、朝から夜まで働きづめでその汗と涙の給金一切合切を信じる国許の父、母に仕送りを続ける健気な光恵の姿に自身を投影し、余りにも惨めでかける言葉もかけられる言葉も見当たらず、よりによって最悪の糸引き女工の末路を垣間見た彼女等は、命を張って身代わりにババをひいてくれる貧乏神の背中にさえ恐れおののき、遠ざけ、明日は我が身の定めでないことだけを唯ひたすら祈るだけだった。
しかしそれとて、周りの視線など今の光恵にとっては毒でも薬でもなかった。
何故か微熱が続いて乾いた咳が一向に止まずに長引こうとも、多分、たちの悪い風邪だと思い、時折り胸の苦痛と不意の喀血に見舞われ不安が過ぎろうとも、おそらく、軽い肺炎だと思い、それが更に耐えられないほどに激化し日常生活に支障をきたそうとも、ひょっとしたら、軽い結核で直ぐにでも治るものだと心底思い込みたかったのではなかろうか。
それでも家族思いで一途な光恵は、最後まで奇跡を信じ、最後まで家族との夢を追い続けたかったに違いない・・・。


心地よく振動を伝える列車の硬い座席。
光恵は身動き一つせず、宙を見据えたまま揺れに身を任せていた。
幾度となくトンネルを抜け、その度毎に汽笛が鳴り響き、ガラス窓を覆い尽くす機関車の吐く黒煙の向こう側に、今が盛りの頚城の秋の彩りを目の当たりにして一体そのとき光恵は何を思ったことか。
父と娘は終始向かい合い、されど言葉を交わすことも、互いに目を合わせることさえしなかった。
だが光恵には、夢半ばで突きつけられた不治の病という引導よりも、自身だけでは抱えきれないほどの恐怖と不安からようやく解き放たれ、こうして温かく、最も恋しい父母や妹や山深い松之山の懐に抱かれる喜びを体中で感じていた。
もう、己ひとりだけで思い悩むことも有るまい。
この得体の知れない難病のことや、冷ややかな世間の目、突然宣告された自身の逃げようのない運命を心底理解してくれる家族がいるのだ。
ああ、そうとも、やるだけは、やった。
頑張るだけは頑張った。
目の前には、黙ったまま目を閉じ、時折り咳き込む我が身を案じてくれる父がいる。
光恵が大量喀血したその日の夕刻には家族の元に電報が打たれ、事情が飲み込めないままにそれでもすぐさま迎えに来てくれたのだ。
希望に燃え、順風満帆だった光恵と光恵の家族に言い渡された残酷なまでの宣告。
(ムスメビョウキスグヒキトレ)
ただ、たった一枚だけの紙切れで、こうして一家の運命の判決が下されるのであった。

到着駅を知らせる車掌の甲高い声。
父と娘は意を決したようにゆっくりと立ち上がった。
列車はブレーキの金属音を響かせながら、滑り込むように単線ホームへと到着し大きく車体を揺らして停車した。
父が開ける重い手動扉からは息苦しいほどに、あれほど恋しかった故郷の景色と匂いが一斉に飛び込んでくる。
娘は、まどろむ虚ろな瞳を輝かせ、一瞬息をも吸い込んだ。
たしか一年ぶりの帰省だったろう。
つい昨日のことのように、自身の未来に思いを馳せ、希望を抱いて飛び立った故郷の駅に、まさかこのような形で引き戻されることを一体誰が予想し得たものだろうか。
おぼつかない足取りでホームに降り立つと、光恵は顔を上げて静かに周りの山々を見渡した。
小学校を出たてで多感な時期に、やはり周りを山々に囲まれた都会の街で過ごしたこの数年間が、何故か遠い昔の薄らごとのように脳裏に蘇ってくる。
仕事に対する嫉妬や妨害、死病におののき嫌い何時しか自分を避けるように噂しあう同僚たちの白い目、そして、さげすむように、或いは哀れむように落ちぶれ女工の背中を見送る工場の門番。
だが心身を蝕まれ、社会の片隅に追いやられてゆく自身の運命だけは、決して他人のせいではなかったのである。

澄み渡った空の下、汽笛も高らかに、黒煙を吐いて一気に勢いを増す蒸気列車のその後ろを、天水連峰から吹き降ろす秋風が音もたてずに追って行く。
残されたのは、傷を負った娘とその父親の二人だけだった。
父は、列車の行方を虚ろな眼差しで追う蒼白い娘の顔を眺めながら、不条理な神の掟を呪ってやることしか、もう何もしてやれなかったのかもしれない。
駅舎を出ても、父の勧める食堂の炉連を潜ろうともせず、ただ首を横に振るだけの光恵。
父はそれ以上、娘に何かを言うことも無く、黙ったままひとり店の中に入ってゆく。
光恵は店先の、深い庇の太い柱に背を凭れ、ぼんやりと、以前とは様変わりした街の風情を感じ取っていた。
だが変わってしまったのは光恵自身で、四方を覆う山々の景色や街の佇まい、目の前を通り過ぎる一人ひとりの意識や感情など、どれ一つとってみても、多分それほど変わってはいなかった。
出稼ぎに出て以来、何度と無くこの町の風情を感じながら、自身の夢の到達を意識していたはずだ。
それにしても、こうして光恵の姿に気づき、恐る恐るでも振り返ってくれるのは、周りをうろつく野良猫か、はたまた店の飼い猫くらいで、何しろ、まるで建物でも、背景にでも同化してしまいそうな、その存在すらを見失うほどに今の光恵は影が薄かった。
やつれた表情の、窪んで虚ろな瞳と蒼白く扱けた頬、一見老婆と見間違うほどに痩せ細り、落ちた細い肩と小さく丸まった背中。
ひょっとしたら、若い娘の背負った運命を悟り、知らぬ存ぜぬを決め込んでくれる心優しき街の衆だったとしても不思議では有るまい。
ゆっくりと瞼を上げ、見上げる先の鳶が獲物を見つけて急降下しようとも、驚き逃げ惑う野良猫が騒ごうとも、光恵は身動きもせず、瞬き一つすることも無かったであろう。
ようやく店の中から姿を現す父の顔。
笹の葉に包んだ握り飯二つを手に、後生丁寧に挨拶を済ませると振り返り、めし屋の暖簾を避けながら口元を綻ばせてくる。
差し出された掌の中の大きな塩結びを握り返した光恵は、ただ黙って小さく頷くだけだった。
今を合図のように、ゆっくりと山に向かって歩き出す、覚悟を背負った娘とその父親。

周りの木々が色とりどりに鮮やかで、天空に舞う鳶の鳴き声が周囲の山々に響き渡り、眩いほどに燦々と陽射しが降り注いだとして、この親子にとって一体何の慰めになっただろうか。
知り合いなのか、或いは全くの他人か、時折り行き交う人が足を緩めても、二人の尋常でない様子を窺い知ると、また何毎も無かったように足早に立ち去ってゆく人、ひとり、ふたり。
前を歩いて後ろを気遣い、後ろに退いては娘の歩調に合わせ、なだらかな上りの坂道を踏みしめる父。
娘とて、咳き込む口元を押さえながら、父には心配かけまいと額の汗を隠して上ってゆく。
もう、駆け足のように蒸し暑い窪地の夏が過ぎ去って、見下ろす限り裾野に繰り広がる棚田や段々畑の実りの取り入れは、とうに終わっていた。
季節はすでに晩秋の、初雪も降って、朝晩めっきり冷え込む頚城の峰々。
暑くも寒くも無かったが、胸の病を負った光恵には、どれほどの勾配の坂道にしても難儀なことだけは確かだった。
大きく弧を描いて曲がりを過ぎる毎にいよいよ視界が開け、周りの木々が益々色鮮やかに照り輝こうとも、今の光恵にはそれを愛でる余裕など既に無かった。
時折り口元を両手で覆い、痩せ細った両肩を小刻みに揺すって咳き込む娘の後ろ姿を、まさか父親は、何事もなかったように平然と見過ごせるはずも有るまい。
帰省する度に、驚くほど眩く成長を続ける我が娘の背中が、一体如何してこんなにも早く小さく萎んでしまったのか、父には目の前の現実が未だに信じられなかった。
突然の、容赦の無い一方的な電報にしても、他人と見間違うほどに変貌した光恵の容姿にしても、病気になって、まるでごみのように使い捨てにされてゆくことも、そして、この期に及んで泣き言ひとつ溢さず、気丈なまでに歯を食いしばり畝った山道を上る我が娘の背中が・・・。
何故だ、如何してこうなる前に言ってくれない。
痛いとか、辛いとか、もう辞めてしまいたいとか。
昨年の盆休暇の帰省から一年と三ヶ月、父親は光恵の変わり果てた姿を目の前にして、どこをどう探しても本人に問いかける言葉など見当たらなかった。
せめて正月でも盆休暇にでも実家に帰省してさえいれば、家人の誰かが気付いてあげられただろうに。
何故なんだ、如何して帰ってこなかった。
好い人でもできて帰れないとか。
仲間と旅行で帰れなかっただとか。
ああ、それならば頷ける。
だとしたら、これほど無残な娘の姿を絶対に目の当たりにすることもなかっただろうに。
ふらつきながら、いよいよ歩幅も縮み今にも倒れそうな光恵。
己の病に覚悟を決めてそれでも必死に前に進もうとしていた。
そしてこんな時でさえ心配かけまいと気丈に振舞う光恵の背中に、一体何を言うべきことがあろうか、何がしてあげられるというのか。
時折り深く溜息をついて、その場に立ち止まる光恵を労わりながら父は考えあぐねていたのである。
そして、息も絶え絶えに今にも前のめりで倒れ込みそうな娘の前に背中を向けてしゃがみこむと、振り向きざまに両腕を後ろ手に差し出した。
一瞬、驚いたように首を振ると大きく後ずさりをする光恵。
不治の病と嫌われ恐れられる、はやり病に冒された娘の、必死の形相で拒む姿が何を言わんとするかは分かっていたが、それでも無言のまま近寄りながら更に催促の視線を投げかける父。
光恵はその執拗なまでの大きく深い気持ちに意を決し、後ろ手に手招きをする父の背中に黙って頷くと、か細い肢体を折りながらそのままゆっくりと体を凭れ掛けてゆくのだった。
安堵したような、背中に負ぶった娘の体を両腕でしっかりと抱え、片膝をついて静かに立ち上がろうとする父の穏やかな表情が一転にわかにかき曇ったのはその時だ。
背負い込んだ娘の体がこれほど軽く、まさかこんなにまで細く華奢になっていたことを改めて認めざるを得ない父親の心境は果たして幾許のものだったか。
余りにも大きく、独りでは抱えきれない恐怖と不条理な現実に苛まれた娘の代弁者は、その時自身の、前途を悲観した絶句か、溜息か、言葉すら発することも出来ないこの状況を背中の娘に悟られまいと、何事も感じなかった素振りで静かに立ち上がった。
ああ、これが天の下した裁定なのか。
もう逆戻りも、差し替えることさえ出来ない家族の運命。
瞼こそ見開いてはいても、父と娘の目の前には一点の希望の灯すら見えず、頭の中こそ絶望の淵を知らせる半鐘が鳴り響いていたに違いない。
これこそが貧農の出の娘の、生まれながらに背負った宿命なのだと諦めるしかない運の悪い人間だということか。
父は、娘の総てを背負い込むと、曲がりくねった小石の坂道を、一歩一歩噛み締めるように上ってゆく。
ここまでくると周りでは、ブナやカエデの木々が陽射しに映えて眩く光り輝き、風に揺れる白いススキの穂の群れが道端から四方の峰々を束ねていた。
ブナ林の木漏れ日の中を、番の山リスが足元を小走りに通り抜け、頭の上では渡りの野鳥が涼しい声を響かせる。
もう既に、遅れてきた赤とんぼが父娘の都合などお構いなしに目の前を飛び回り、終いには二人の肩口で翅を休めた。
ゆっくりと瞼を開く光恵。
如何にも自然の恵みを受けて、鮮明に、顔まで朱に染めたアキアカネ
それほど気候も良かったのか、今年の山の取り入れはさぞかし豊作だったろうに。
ああ、ひょっとしたら、ここにも真の生き方が有ったに違いない。
とうに覚悟を決めた父娘は、何かに取り付かれたように生き急いだこの数年間を、透明な翅の向こう側に透かして振り返える。
誰が悪かったわけでもなく、だが、ただ運が悪かっただけでは済まされない貧困農村地帯の現状は、一大凶作による飢餓や娘の身売り、果ての一家心中、そして都会で働いた娘達が持ち帰る不治の病という名の土産物。
噎ぶように息を吸い込む光恵の、手にした握り飯が潰れるほどに細い腕が撓り、痩せ細った小さな肩が小刻みに震え出すと、父はもう、どうにも抑えきれない感情を、唯一出来る娘の為ぞとばかりに何憚ることなく、この世のものとも思えぬ形相で嗚咽するのだった。
それでも涙で霞んで前が見えぬまま足を緩めることなく、既に骨と皮だけの娘の両腕を握り締めながら、こんなになるまで分かってやれなかった自身の不甲斐無さをただただ悔い続けてやるしかなかった。
だが光恵には、自分を背負って共に大きく肩を震わす、父の背中の温もりだけでもう十分だったのだ。
実は、最初から総てを分かっていたのは光恵自身だったのかもしれない。
都会に出て家族のために背伸びをしようとしすぎたことを、夢など叶うはずもなく、いつしかはかなく消え失せてしまうことを、山懐に抱かれた村々の風情や人々の心情が以前と少しも変わることなく、夢破れ、満身創痍の己をも何事もなかった如く自然体のままで受け入れてくれることを、そしてこここそが自身の総てであり、何よりかけがいの無い唯一無二の場所だったということを・・・。
父娘は、互いに語ることなく、いよいよ上りの急坂を何気張るでもなくただ淡々と歩を進めていった。
これから訪れるであろう困難にでも立ち向かえるかのように。
もうそこには峠が控え、後は下りだけの、愛しい母と妹の待つ家へと繋がる一本道。
沢伝いに聞こえる川のせせらぎや、アカショウビンの絶え間ないさえずりが脳裏にまで染み渡る深い黄金色のブナ林を抜けるころには、辺りを吹き渡る風が忙しなくザワザワと笹や葦の葉を揺すりながら出迎えることは分かっている。
開けた視界の先の、いよいよ頂を知らせる鳶の物悲しい鳴き声だけが暮れなずむ大空に響いていた。
振り返る父と娘。
ふもとの町から吹き上がる気流に任せて、大きく弧を描く勝手気ままな鳶の姿をどんなつもりで見つめたものか。
息苦しいほどに天高く澄み渡るしじまの空は刻々と紫がかった朱色に染まり、向こう側に聳える峰々は、任せるようにその灯りの輪郭を映し出した。
今こうしているのが不思議なくらいに心穏やかで、今ぞとばかりに光恵は父の耳元に合図を送るのだった。
静かに父の背中から降り立つ光恵の傍らには、ひっそりと大地に佇む一輪のカワラナデシコが遅咲きの可憐な花びらを風に靡かせていた。
しっかりと、眩いばかりの夕日に映えて、訪れるであろう未来に思いを馳せて・・・。

 

[豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」「ウィキペディア」等を参考にさせていただきました